井川耕一郎(映画監督、脚本家)
いや、そう解釈すれば、自衛隊員の地中からの出現も少しは理解できるのだ。
穴の中から、又、ガサゴソと、音がする。
皆、穴の中を覗く。
隊員1が、穴を這い上がって来るが、顔を上げた隊員1の目に、常磐の顔が入ってくる。
隊員1「ワッ!!」
気を失って倒れる。
続いて隊員2が、這い上がって来る。
清盛の顔が、目の前にある。
隊員2「ワッ!!」
気を失って、倒れる。
× ×
“ハァ、ハァ……”と、荒い息使いで這いつくばっている、隊員1、2。
スタッフが、水を与える。
隊員2「(水を飲んで)タイム・トンネルを、潜って来たかと思ったよ」
この場面で重要なのは、隊員2の「タイム・トンネルを、潜って来たかと思ったよ」という台詞だ。おそらく、『山村武の、はめ殺し一代』の主人公に乗り移った義経の欲望は、「ドンドン、ドンドン、精液が溜まって行く」ように強くなって、ついに自衛隊員を撮影現場に引き寄せたにちがいない(注3)。
だが、自衛隊員たちが地中から出てくるなり見た常磐御前は本物の常磐御前ではなかったし、シナリオと違って映画では、自衛隊員たちは常磐御前と一緒に平清盛までも見てしまったところで、驚いて気を失ってしまう。要するに、義経の欲望はここでまたしてもずっこけてしまったわけである。
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井川耕一郎(映画監督、脚本家)
『アメリカの夜』、『パッション』、『ことの次第』、『(秘)湯の街 夜のひとで』、『ロケーション』、『女優霊』……。映画の撮影現場を描いた映画は今までに何本もつくられてきた。1999年に公開された沖島勲の『YYK論争 永遠の“誤解”』もそうした映画の一本なのだろうが、しかし、他とは異なる感触がこの映画にはある。
撮影の続行が難しくなるような危機が訪れてしまうこと――これが撮影現場を描いた映画の多くに当てはまる特徴だろう。だが、『YYK論争 永遠の“誤解”』には、そうした危機があっただろうか。撮影中にまったくトラブルがなかったわけではない。制作主任の古川が万引きをしたり、自衛隊が地中から唐突に出現したり、外波山文明演じる監督が映画評論家を殴ったり、といった事件がたしかに起きてはいる。しかし、これらの事件が現場に与えたダメージは限りなくゼロに近く、撮影は予定どおり三日で終了してしまっているのだ。
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井川耕一郎(映画監督、脚本家)
沖島勲の仕事全体を見渡したとき、一九九三年に公開された『紅蓮華』(監督・渡辺護)のシナリオはひどく孤立しているように見える。沖島の他の作品には童話的なもの——笑いと残酷さの独特な融合があるが、生真面目にリアリズムを押し通した『紅蓮華』にはそれが感じられない。八百年後の現在に義経たちの幽霊が漂着する『YYK論争 永遠の“誤解”』や、遠い未来の子孫のもとにご先祖様の男が漂着する『一万年、後‥‥。』といった最近の荒唐無稽な作品と並べてみると、本当に『紅蓮華』のシナリオは同一人物が書いたものなのだろうか、という疑問すらわいてくる。
沖島勲が『紅蓮華』のシナリオに参加するまでの経緯にも少しややこしいところがある。ある女性社長の自伝の映画化を依頼された監督の渡辺護は、沖島勲にシナリオを頼もうとした。しかし、原作の自伝を読んだ沖島は自分はライターとして適任ではないと感じて断ってしまう。そこで渡辺は佐伯俊道にシナリオの執筆を依頼するのだが、第一稿が完成したところでふたたび沖島に会い、シナリオの直しを依頼するのである。
一体、なぜ沖島は一度は断ったシナリオを引き受けようと思ったのか。それは、佐伯俊道が書いた第一稿の中に、原作をどう料理すればいいのかということに関する重要なヒントがあったからだろう。
佐伯が書いた『紅蓮華』の第一稿は、主人公・さくらの誕生に始まり、親が決めた相手との結婚、軍人である夫の戦死、未亡人となってからの出産、夫の実家でのつらい労働の日々……といったふうに波瀾に富んだ女の一生を二時間のドラマとしてうまくまとめている。しかし、沖島が注目したのはそうしたうまさではなかった。原作にはほんのわずかな記述しかなかったさくらの再婚相手・健造に関する挿話が大きくふくらんでいたこと——このことが沖島にとっては大きな刺激となったはずだ。 続きを読む »
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井川耕一郎(映画監督、脚本家)
『一万年、後‥‥。』の主人公の男は、一万年後の子孫・正一の家に漂着するまでのことを語っているうちに思わずこう叫んでしまう。
男「お袋ーッ! 宇宙の、こんな長い時間、始まりも終りも分らない、そんな時間の中に、たった(指で示して)、これっぽっちの間、この世に生まれて来て、どうして、苦労ばっかりして、死んで行ったんだよーッ。一体、何の意味があったんだよーッ!?(ワンワン泣きながら)一万年経った今でも、俺、気になって……」
すると、正一の家の壁に母の映像が映って、男に向かって静かに語りかけるのである。
母「隆、よくお聞き……お母さんは幸せだったんだよ……お前達、子供のことを心配して……その事が、楽しかったんだよ」
そして、母の映像はさらにやさしい言葉を男にかけるのだが、「本当ですか、お母さん……」と男がいい年をして泣きながら、ふたたび問いかけると、態度を急変させてしまう。
母「心配なものが目の前にあるのに、心配しないでどうするんだィ? (凄い形相で、怒鳴る)ふざけんじゃねえッ!!」」
母さんは幸せだったのだろうか……と問う息子に冷水をあびせるような行動をとる母。こうした母は、『一万年、後‥‥。』だけでなく、『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』、『YYK論争 永遠の“誤解”』といった過去の監督作にも登場する(『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』では、乱交の中で快感を感じている姿を、『YYK論争 永遠の“誤解”』では、平清盛といちゃつく姿を、母は息子に見せる)
母の苦労について考えるときに自然とにじみ出てくる感情には注意しなければいけない。それは単なる子どもの甘えや感傷にすぎない場合がある。現実に突き刺さるような表現をうみだすためには、甘えや感傷には批判的でなければいけない——沖島勲はそう考えて、自分が監督する作品に登場する息子たちを意識的に突き放しているように見える。しかし、沖島勲の想像力の根底に、母の苦労を語る物語にどうしようもなく惹かれてしまう傾向があるのもたしかなのではないだろうか。 続きを読む »
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井川耕一郎(映画監督、脚本家)
沖島勲が足立正生と共同で書いた『性犯罪』(監督・若松孝二)のシナリオには、読んでいてどうにもひっかかる部分がある。主人公の伊丹が海辺で子づれの女に声をかけるあたりからの一連の場面がそうだ。
伊丹、夫人と話しながら、足元の砂をつまんでは投げ捨てているが、やがてギョッとした表情。
砂の中から、時計の目盛盤のようなものが付いた変てこな機械が出て来る。
どうやら、素人が作った時限爆弾らしい。
伊丹は爆弾を砂の中に埋めもどすとその場を離れるのだが、結局、「シュルシュルと白煙が立ち上」っただけで爆発は起こらない。すると、伊丹はまた女のところに戻り、彼女を誘惑し、次のシーンの冒頭ではこういうことになる。
伊丹が自転車に身をもたせかけて夫人を待っている。
ハンドルのところにぶら下げた今日の時限爆弾をもてあそびながら……。
そしてそれきり爆弾はドラマとのつながりを失ってしまうのである。ラストで唐突に爆発し、伊丹と彼が書きあげたばかりの小説を吹き飛ばすまでは。
一体、この爆弾は何なのか。誰がどんな目的でつくったのかというような詮索はまったくなされない。どう考えてみても場違いなのに、こんなところに落ちていても別に不自然ではないでしょう、と言わんばかりの奇妙なあり方だ。ついつい替え歌で「名も知らぬ遠き島より流れ寄る爆弾一つ……」と歌ってしまいたくなるような気分である。つまり、『性犯罪』の爆弾はテロの道具というより、漂着物に近い。わたしを拾って……と無言のうちに呼びかけてくる貝殻や流木の仲間だと考えた方がすっきりするのではないか。 続きを読む »
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CHIN-GO!(映写技師)
とりとめないことごとを、映画『出張』に寄せて。そう、こんな思い出がある。
…かつて僕がいったりいかなかったりしていた大学の映画研究会(これにはよくいっていた)にやや奇人変人の類にあたる先輩がいて、とりあえずSさんとしておくが、彼は大学に7年いて、もう卒業というときにホエールウォッチングの旅行にいきたくなり、試験をひとつうっちゃってクジラを見にいき、来年は単位ひとつだけのためにのんびり大学きてやるわい、などと言っていたのだが、その旅行のビデオを行った者行ってない者混ざって部室で見ていたら(どこか、高知か九州かの沖は海の青が濃く、ほとんど紺色。クジラはなかなか見えない)Sさんが、おおっ!と言いだして、実は彼は一年休学してバイトに明け暮れていた年があり、その期間も在学とカウントされるのでもう8年大学におり、その年卒業せねば最大在学可能な年限を超えてしまうので自動的に除籍されてしまうのだ。クジラのビデオを見てるうちにそのことに気づいたらしい。除籍されるよりはと、中退届けを出しにいったが、しかし、部室でコーヒーこぼしたときくらいの「しまったなあ」加減なのであった。こういうひとを大人(たいじん)というのであろう。
…そのSさんが、ある日突然僕がバイトで映写をしている映画館にやってきた。
「おう、元気しとるか…たしかキミがバイトしとるのはここやと思い出してなー…街におりてくるのも久しぶりやー(←このころすごく山奥に隠棲していたようだ)、映画みるのもひさびさやなー。この映画、おもしろいんか?」
そのときやっていたのが沖島勲監督の『出張』である。『YYK論争 永遠の“誤解”』が公開されたころで、レイトショー枠が旧作特集だったのである。 続きを読む »
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スガ(糸+圭)秀実 (文芸批評家)
いうまでもなく、沖島勲は日本のアンダーグラウンド映画の代表的な作家の一人だが、にもかかわらず、「アンダーグラウンド」という規定に収まるには、どこか居心地の悪さを発散させてきた。それは、大和屋竺や沖島の「盟友」足立正生に比して、そう言えるし、沖島、大和屋、足立を包摂してきた若松孝二と較べても、そうである。沖島の水脈は、若松プロが輩出した荒井晴彦以降の後進にも、うまく継承されていないように見える。それは、沖島が「前衛嫌い」であることと関係しているだろう。
日本のアンダーグラウンドの特徴を一言で言い表せば、それは「文学的」という一語に尽きる。もとより、それは映画に限らない。演劇にしても舞踏にしても然りである。ところが、沖島は「“文学的映画”程始末に負えないものは無い」ということをモットーに、アンダーグラウンド的(「前衛的」!)環境のただなかにありながら、「反文学的映画」を撮り続けてきた、稀有な存在だといえる。もちろん、沖島の監督作品は『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』(1969年、しかし、どうして「ベティ」ではないのか?)から新作の『一万年、後….。』(2007年)までの、たかだか五本に過ぎないのだが。
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モルモット吉田(映画評ブロガー)
沖島勲にとって『ニュー・ジャック&ヴェティ モダン夫婦生活讀本』(’69)以来27年ぶりのピンク映画となった『したくて、したくて、たまらない、女。』は、温泉旅館を舞台に、そこで日常を営む人々の何でもない時間と、そこに漏れこんだ非日常の怪異を軽妙な味わいで描いた作品だ。
温泉旅館や温泉街を舞台にしたピンク映画は、本作のプロデューサーを務めた渡辺護の『(秘)湯の街 夜のひとで』(’70)や、沖島が助監督を務めた足立正生の『性地帯 セックスゾーン』(’68)といった作品の頃から作られているものだけに、久々にピンク映画を撮るというのに、目新しさに欠ける作品を撮るものだと思ったが、『ニュー・ジャック&ヴェティ』にしてもそうだが、60年代後半の若松プロを支えた助監督が満を持して放つデビュー作としては、いささか軽すぎるように思えてしまう。しかし、その軽妙さこそが沖島勲なのだと、最新作『一万年後…。』(’07)を観た後には、本作も含めたその一貫した変わらなさを感じずにはいられない。沖島は、『したくて、したくて、たまらない、女。』を撮るにあたり、「(予算の)サイズに合った内容と仕事をやろうと思った」 と述べている。撮影日数3日、製作費300万のピンク映画に、大層なテーマを詰め込んで撮るのは理解できないと言うその姿は、最も過激な時期の若松プロで、限定されたテーマ(権力への憎悪と復讐)を先鋭化させて量産していく過程に携わった者だから言える、ピンク映画の可能性と限界を知った上での発言に思える。 続きを読む »
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堀 禎一(映画監督)
沖島勲は悪夢にとりつかれている。なぜならそれが現実だからだ。そしてそこから逃げ出そうとする。あの悪魔的なズームバックや異常なカット割りを通じて。しかし到底逃げ出す事など出来はしない。なぜなら彼はリアリストだから。ロマンティシズムやセンチメンタリズムとはもはや無縁な場所に立ってしまっている。そしてより恐ろしいことに自分の映画などとるにたらないものだと知ってしまっている。沖島勲は絶対的な孤独を受け入れてしまっている。キャスト、スタッフ、自然さえもが彼を自分たちのところに引き戻そうとする。凄く危険な場所に彼が立ってしまっているから心配なのだ。しかし沖島は皆につまらない冗談をとばしながらも戻れない事を知ってしまっている。もはやこの悪夢を生き抜いていく事しか道がない事を知ってしまっている。彼に残された最後の人間的側面は優しさである。しかもそれは映画に対する全身から捧げる哀れみである。彼は『映画を追い越さない様に、追い越さない様に』と細心の注意を払いながら、卑屈なくらい頭を下げながら、身をよじり、自らの映画を、可能な限り、正確に、積み上げていく。その姿は仰ぎ見るほど気高い。心ある人は彼の優しさが理解出来るはずだ。沖島勲は映画である。
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足立正生(映画監督)
これは、楽しいギャグとブラックユーモアに満ちたSF映画であり、星新一と筒井康隆を足して何倍か歪めた教育童話なので、まともに付き合うと観る側の認識が歪み始める。
ところで、一万年後の人間の身体には血が流れているのだろうか?いや、その頃にはもう、地球そのものがまともに存在していない筈で、もし温かい皮膚を持って呼吸している生物がいたら、それは地球史と人類史の中から適当にコピーされた幻影で、実は不在証明そのものに違いない。
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