沖島勲
『ムーミン』というテレビシリーズの脚本を書いていたから、呼ばれたのだった。制作会社の「グループ・タック」は、かつて虫プロで仕事をしていた人達が殆どで、制作ルームも、虫プロに在った。虫プロの建物は、会社が倒産した後で、組合が管理していた。
「昔ばなし」は、初め国際線飛行機の機内で外国人向けに日本を紹介する目的で二十数本が作られたという事だったが・・・評判が良いので、今度、テレビの番線に乗る事になった。我々(制作会社)の側には絵の専門家ばかりで、いわゆる文芸に係る人間は一人も居ない。原作の選択から、脚本、ダイアローグ(そのスタイルの決定まで)と、全て面倒を見て欲しいという事だった。
私のクレジットが、“文芸”である所似である。 続きを読む »
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沖島勲
人生を振り返って“懐かしい”という感情を持つのは、私の場合、主に中学二年生迄過ごした岡山の田舎の事であり、どんなに時間の幅を広げても、せいぜい、上京して大学へ入る迄の高校の生活迄だった。
然し、年を取って来るに従って、そこのところに少し変化が生じて来た。上京してからの、ほんの数年……まだ、五〇年代の匂いがかすかに残っていた時期ということになろうか……自分がまだ、大人に成り切っていなかった時期という事だろうか……一九六一、二年まで……東京にも、まだ、それ以前の時代へ継がる風景が、数多く残っていた。云わば、我々はまだ、自分達の親達が作った時代に生きており、それ以後の時代は、我々自身に継がってしまうという事だろうか。
日大映研の作品を語る時も、『椀』と『鎖陰』では、そのような違いがある。『椀』の頃……我々はまだ、皆、初心で、殆んど“少年”だった。
* * *
一九六〇年の六月初めの頃と思うが、私は木造の映画学科スタジオの裏にあった、映画研究会の門を叩いた。時は……安保騒動の最中で、私も連日国会周辺のデモに出掛けていたが……そんな時期での事だった。
安保条約が国会で自然承認され、我々の生活も少し落ち着いて来た頃……映研の活動も動き出した。当時の映研は、組織的には、旧映研が、学科に所属する専門研究会のようなものだったのに対し(その中で尖鋭なグループが『釘と靴下の対話』『Nの記録』『プープー』という三本の映画を作った)、学科からは切り離される(追い出される)形で、一同好会として再出発しようとしていた。名前も新映画研究会と改められた。近しい人々として、二年上に川島啓志さん、小笠原隆夫さん、一年上に、足立君が居た。
※手紙を書けば、尊敬する兄であり、足立さんなのだが、この稿では、当時の雰囲気を大事にしたいので、君づけとする。又、川島氏は、新映研の初代委員長だった。
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沖島勲
一宮宗昭という男が居た。彼は映画科Aコース(プロデューサー志望)であり、当然、『鎖陰』のプロデューサー的存在となった。
一宮は地方の出身者である。従って、今でもよくある、○○県人学生寮という所に入っていた。
従って、『鎖陰』のクランク・インは、当然その学生寮の風呂場のシーンからとなった。
ラッシュを、観た。“まずい!……”
勿論、そのシーンを見てこれは学生寮の風呂場と分る訳ではないが、どこか殺伐としていて、主人公の青年と恋人のユラがとてもどうこうするような場所じゃない。
“どこかないか?”という事になり、“三島由紀夫の家はどうだ!?”という事になった。
話が飛躍し過ぎるようだが……当時、三島の家はあちこちの雑誌で紹介されていた。(勿論実際には誰も見た事がなかった)
私と新津左兵と加藤衛の三人で行く事になった。大森駅を降りて……近道をしようという事になり、谷川を渡ったり土堤を登ったりした。(当時そのような場所は一杯あった)そうして、崖から飛び降りると……そこが、三島邸だった。
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